落語好き腐女子の酒日記(仮)

落語と酒が好きな腐女子の日記です。

知らない落語を聴いた時のワクワク感

落語を趣味として聴きはじめて早五、六が経っている。

そうなると大抵の古典落語の演目は聴いたことがある状態になる(だが同じ噺を何度聴いても演者によって違う魅力を見せてくれる落語ってすごいなぁとも思う)。

 

だから、たまに寄席や落語会などで全く知らない古典落語がかかると「うわー!何これ!?初めて聴く噺だ!」

とワクワクする。

それと同時に「うわー!まだ知らない噺があったのか!悔しい!」

という気持ちが湧いてくる。

 

そして終演後に携帯を取り出して噺のキーワードを入れて検索する。

すると大抵の場合その演題が出てくる。

そこではじめて

(へ〜あの噺、『○○』って言うんだ!)

と知る。

 

この知らない落語の演目を聞いた時のワクワク感というのがたまらなく好きである。

もちろん全部が全部「うわーこの噺どうなんの!?」みたいなものではなく

「あー何となくこういう展開になってこういうオチになるんだろうなぁ」

と分かるものもある。

それでも初めて聴く噺にはどこかワクワク感や嬉しさを感じている自分がいる。

 

これから先、落語を聴き続けていれば、また何度かその噺を聴く機会があるかもしれない。

だけど、この「初めて聴く噺」に対するワクワク感は一度きりのものだ。

どんなに好きな落語家さんで聴いてもそのワクワク感は再現できない。(私の中で例外的にそのワクワク感を再現してくれる落語家さんが一人いるがその話をすると長くなるので割愛)

だから初めて聴く噺はなるべく好きな落語家さんで聴きたい。贅沢な欲望である。

 

付け加えると、新作落語の会でなおかつ全部ネタおろしの会とかは猛烈にワクワクする。

だって全部知らない噺なんだもん!

コントをそのまま落語にしたようなものから、設定や構成にビックリさせられるもの、「は?何これ?」って思わされるものまであるが、初めて聴く新作落語のワクワク感はどんなに駄作(すげえ失礼な言い方だな。怒らないでください)でも感じることができる。

 

落語にもっと詳しくなりたいが、全部の落語を知ってしまうのは何だか勿体ない気がする。

私は『水神』という落語をまだ聴いたことがない。圓生師匠の音源があるので聴こうと思えば聴くことができるが、生で偶然聴ける日のワクワク感を味わうため、あえて聴かずにいる。

今年中に聴ける日がくるのであろうか。